もごもごもうご

大抵停滞、えてして不得手

0626 メタ倫理学、宗教史学、読書について

  
大学院生になってはや3ヶ月が経とうとしている。
日々、あまりに目まぐるしいが、必死ゆえに得るものも多く、とても楽しい。
(進歩してるかどうかは別問題。むしろ退化してたりして・・・)
 
学問のことを知れば知るほど、本を読むことが、ますます楽しくなっている。
議論の愉しみと、知識を得る悦びとは、相補的に絡み合って「学問の愉悦」を織りなしているように思う。
そして、その合間を縫って、自分自身の「思索」を醸成させていくような感覚である。
  
ただ、新たな発見や知識がとめどなく押し寄せてくる代わりに、
ところてんのように記憶が押し出されていくような気がしてならない。オソロシ~~~
 
ゆえ、研究日誌のようなものをつけてみようと思った次第である。
 
ブログの便利なところは、日付やカテゴリーによって思考を整理・アーカイブできることだ。
もちろん、その要件はevernoteでも満たせるのだが、ネット上に公開することの効用というのは確かにある。
多少は見られるであろうことを意識することで気が引き締まるというか、
人にプレゼンするつもりでまとめることで初めて記憶が定着するタイプの人間なので・・・。
 
まぁまずは、特に読まれることを意識せず、肩肘はらずに軽い気持ちで書いていこうと思う。
 
 
 
1.メタ倫理学、という学問について
2.読書について。知識は自由な思考を妨げるか
3.ペッタツォーニとイタリア宗教史学
4.きょうpdf化した本
 
 
 
 
 
 

1.メタ倫理学、という学問について

演習にて、倫理学年報所収の論文を読む。分析哲学に明るくない者にとってはとっつきづらい、難解な議論であった。
以下のことが気になった。
 
・「メタ倫理学」という分野の位置づけ
分析哲学の水脈をひいて独自に発展したディシプリン倫理学全体の中ではどういった機能を果たしているのか。
ガラパゴス化した議論が成熟していく過程で、「Aの批判としてのB、Bが要請するものとしてのC、Cに対立するものとしてのD...」といった具合に、
どんどん原初の課題から離れていく傾向があるように思う。(今学期、形態論(言語学)の講義を受講しているが、それに近いものを感じる)
 
・論文において詩的な言葉を使うことの妥当性
:意味がとれる範囲ならOK
 
・規範的なものと客観的なものの間で、科学を成立させようと努力すること
:この点においては、宗教学も倫理学と同じ問題意識を抱えているのではないか。
:「価値」を扱う学問としてのあり方
 
議論自体は特殊なものだが、普遍論争や論理実証主義のドグマなど、
マクロな哲学史的課題の中に位置づければ多少は自分のもとに引き寄せることができる気がした。
またその論文では「機能主義」の考え方を応用することで、道徳的真理の真偽判定を確保できる、という仮説があげられていたが、
この考え方は多元主義的なものであるように思う。
というか「機能主義」、めっちゃ汎用性高い。
 
近現代の哲学史上で、デュルケームウェーバーがいかに重要な位置を占めているかということがよくわかる。
そして彼らは、宗教現象への洞察に心血を注いだのである。
そのあたりの世代の議論を追っていく中で、「社会学」や「人間学」、「心の哲学」など、何らかの学問的要請によって哲学から分離し、
独自に発達した(比較的新しい)領野の位置づけについて考えたい。
 
 
 

2.知識は自由な思考を妨げるか

会話の中で、知識を引っ張ってきて話す部分と、素朴な疑問を呈する部分の両方がある。
素朴な疑問を呈することで、表面積が広がる。その素朴な疑問に、知識を得ることで奥行きをもたせることができる。
(ここでの知識は、経験と代替可能である。もちろん、百聞は一見にしかずということで、正しく経験すればそっちのほうが得られる情報の質は高い)
その連続によって、少しずつ世界が広がっていくものかもしれない。
ゆえに、知識は思考を阻害しないはずだ。(ショーペンハウアー先輩~~~ッ)
 
また、会話においては「素朴な疑問」が許されるが、こと「議論」の場においてはそれが許されない場合がある。
暗黙の了解としての前提知識があって、それを鉾や盾として戦わなければならない時だ。
だが、本当は議論は「戦い」ではなく「共同作業」であるはずだ。
常に前提を疑う姿勢も大事だが、「知らない」ことを「恥」にしない空気をつくることも重要な気がする。
工学の研究者の方が言うには、日本のアカデミアではそれが難しい、ということだった。
知識は「所有」するものではなく、常に「共有」されるべきものである。
問いの立て方によってそれが可能になるのではないか、とも思う。
 
もちろん、前提知識を同期していく努力は研究者として当然のことだが、
素朴さと率直さも失わずに頑張っていきたい。
 
 
 

3.『イタリア宗教史学の誕生----ペッタッツォーニの宗教思想とその歴史的背景』江川純一、勁草書房、2015

ローマ・カトリックの権威が跋扈するイタリアで、いかに宗教の客観的な学が成立したか、というかなり胸熱の学術書
著者によれば、イタリアの宗教史学は「「カトリック」そのものや「修道会」を意味していた単数形の”religione"を複数形の"religioni"に変換する試み」であったという。*1
歴史主義的な「ストリチズモ」という立場に依拠しながら(ア・プリオリな類概念としての「宗教一般」を否定)、宗教現象学的な方法をも模索したという点で、
彼の思想を現代の「宗教概念批判」の延長線上に位置づけて考えることは非常に有益であるように思う。
 
宗教学の歴史を追っていく上で、あらためて参照する価値がある本のように思うので、また改めて内容をまとめておきたい。
 
 
 
 
4.きょうpdf化した本
 
『心・身体・世界 三つ撚りの綱 自然な実在論』Hilary Putnam(1999) 野本和幸監訳、法政大学出版局、2005
第一部 意味・無意味・感覚------人間はどのような心的能力をもつか
  実在論の二律背反とは何か
  オースティンが肝心------「もう一つの素朴さ」の必要性
  認知の相貌
第二部 心と身体
  「私は「機械仕掛けの恋人」なるものを思いついた」
  何かを<信じる>という心のあり方は「内的状態」か
  心理ー物理相関
第三部 後書き
  第一の後書き 因果と説明
  第二の後書き 現れは「クオリア」なのか
 
 
 
『講座現代の人間学7 哲学的人間学』編訳者多数、白水社、1979
哲学的人間学の問題によせて------K.レーヴィット
人間の場としての世界------D.フォン.ウスラー
認識における身体のアプリオリ------K.O.アーベル
認識と行動------F.カンバルテル
価値-ある根源的所与性------H.クーン
人間存在の基底としての言語------J.ローマン
感覚の人間学------H.プレスナー
結びのことば------H=G.ガーダマー
 
 
 

*1:p.3